誰かを悪にしない勇気

誰かを悪にしない勇気

第1回「ニュースの向こう側にいる“誰か”」

ねえ、少しだけ立ち止まってみませんか。

ニュースを見ていると、

怒りや不安が湧いてくることがありますよね。

「ひどい」

「許せない」

「どうしてこんなことをするの」

その感情は、間違っていません。

それはきっと、あなたが命や平和を大切にしている証だから。

恐怖は、怒りに変わる

でも――

そのニュースの中に出てくる“敵”と呼ばれる人にも、

朝ごはんを食べる時間があって、

大切にしている誰かがいて、

守りたいものがあるかもしれない。

国家という言葉は大きい。

軍という言葉も大きい。

思想や宗教や正義も大きい。

けれど、

その中にいるのは、

一人ひとりの人間。

恐怖は、怒りに変わります。

怒りは、「相手は悪だ」という物語をつくります。

そしてその物語が、戦争を支えてしまう。

私自身が気づいた“怖さ”

私はこれまで、たくさんの方の悩みを聞いてきました。

人間関係の中で、

「どうしてあの人はあんなことをするの?」

という言葉を、何度も耳にしてきました。

でも深く話を聴いていくと、

そこにはいつも“恐れ”があります。

認められないかもしれない恐れ。

失うかもしれない恐れ。

裏切られるかもしれない恐れ。

恐れは、形を変えて攻撃になります。

それは国と国の関係でも、

人と人の関係でも、

本質はあまり変わらないように思います。

私自身も、

誰かを「敵」にしてしまったことがあります。

正しさを守ろうとするあまり、

相手の背景を見る余裕を失っていたのです。

そのとき気づいたのは、

怒っているときほど、

自分の中に“怖さ”があるということでした。

人を、人として見るという選択

その怖さに触れた瞬間、

世界の輪郭がほんの少し柔らいだのです。

“敵”という言葉は、便利です。

複雑な現実を単純にしてくれるから。

でも単純にした瞬間、

人は見えなくなる。

私は、暴力を肯定したいわけではありません。

理不尽を見過ごしたいわけでもありません。

ただ、

「人を人として見る」視点を、失いたくないのです。

誰かを悪魔にした瞬間、

私たち自身の中の人間性も、少し削れてしまうから。

ニュースの向こう側にいるのは、

抽象ではなく、

物語を持った一人の人間。

今日だけでいい。

誰かを「敵」と呼ぶ前に、

「どんな恐れがあるのだろう」と想像してみませんか。

優しさは、甘さではありません。

日常の中の小さな分断へ

凛として立つとは、

誰かを打ち倒すことではなく、

人間性を手放さないこと。

静かに、しかし確かに。

誰かを悪にしない

ここから始めましょう。

そしてこのシリーズは、

世界の戦争だけでなく、

私たちの日常の中にある小さな分断にも向けて、

書いていきたいと思います。

このシリーズ「誰かを悪にしない勇気」は、
世界の戦争だけでなく、
私たちの日常の中にある小さな分断にも向けて書いていきます。

次回は「正義はなぜ衝突するのか」。